「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい

小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」2011年4月1日

三陸の人びとは、「老幼の者を助けようとして一家共倒れに」なったり「家族をさがしているうちに逃げ遅れ」たり、「点呼を取っている間に津波に呑まれ」たりしてきた苦い経験から、緊急時にあっては、とにかく「個人の判断と責任において、一刻も早く逃げる」という方針を徹底してきたというのだ。

より詳しい解説をする人は、「てんでんこ」は、「たった一人でも生きていかねばならない」という決意および、「家族やまわりの者を助けきれなかった者(自分も)を責めてはならない」という事後の心構えをも含んでいるのだという。 で、この「てんでんこ」の教えが、結果として、大船渡や釜石で、その教えに沿った避難訓練を繰り返してきた子供たちを、津波の被害から救うことになった、と、そういう話だ。

団結も連帯も大切なことだが、それが集団の前提になってしまうと硬直化を招く。硬直化した組織には異論を許さない空気が生まれ、最終的には異端を排除するシステムができあがる。

原子力発電所安全神話が崩壊したのも、原発を推進する人びとが「ひとつになって」いたことと無縁ではない。
 帝国陸軍において戦局の不利を語る一派が「卑怯者」として排除されたのと同じように、安全という言葉が神話化していた組織では、安全に疑義を差し挟む意見自体が忌避される。と、異論を許さない鉄壁の安全神話において、リスクは黙殺される。危険を想定することそれ自体が、組織の団結に対する反乱と受け止められるからだ。なんという言霊信仰。

復興にでも、支援にでも、人それぞれの道筋があり、地域や立場によって異なった多様なやり方がある。その意味で、最終的に目標がひとつであるのだとしても、過程や方法については、様々なバリエーションがあって良いはずだ。

 花見を自粛する人びとがいることは一向にかまわない。
 もちろん、花見を楽しむ人がいても良い。
 一方に節電を心がける人がいて、他方に経済の活性化を目指す人がいることは、全体として、不健康なことではない。むしろ、そういうふうに多様な生き方が共存している方が、「ひとつの社会」としては健全であるはずだ。