「13億円のバイオリン。」 朝日新聞 2011年7月3日付 天声人語より

英国の詩人バイロンに、大層な音楽賛歌がある。 


〈「美」の娘らの中にあっても おまえのように奇(く)しき力をもつものはないであろう〉 

こう始まる「音楽に寄せて」(安部知二訳)だ。


詩人の娘が愛したバイオリンが、英国のネット競売で空前の約13億円をつけた。 日本音楽財団蔵の1721年製ストラディバリウスで、銘は「レディー・ブラント」。 未使用に近い状態が買われたらしい。 古くも新しい奇しき力である。


イタリアの弦楽器職人、アントニオ・ストラディバリの作は、約600丁が現存する。 300年の時が熟成した高音は輝き、低温は温かく、豊かな倍音はコーラスにも例えられる。 演奏家の憧れだ。


(中略)


日本音楽財団は約20丁を所有し、奏者に貸与している。 虎の子の売却収入は、東北地方の祭りや伝統芸能の再生に使われるそうだ。 「非常時だからこそ一番いいものを出した」という。


冒頭の詩からもう一節。

〈その時、音に魅せられた大洋は鳴りをひそめ 浪はしずまりきらめきわたり 

風は凪ぎ、夢みながらまどろむ〉


「貴婦人」は海のかなたに去っても、遺産は被災地の文化を支え続ける。 万物を鎮める残響に期待したい。

希少価値の代名詞のようなストラディバリウスの中にあって、未使用に近い状態となればどれほど貴重だろうか。 一度手放してしまえば、もう同じ物が戻る事は難しいだろう。  


日本音楽財団は凄いお宝を所有する事よりも、今苦しんでいる人を応援する事を優先した。 心の底から感動した。