「自然との共生」というウソ 高橋 敬一著

「自然との共生」というウソ (祥伝社新書152)
高橋 敬一
祥伝社
売り上げランキング: 246572

人間はあくまで自分自身をスタンダードとして物事を把握してしまうので、たとえ文字で知ってはいても自分の感覚で捉えることのできないもの、小さな昆虫や、細菌や、見えないところに住んでいる生物たち、さらには彼らの生息環境を支配している物理法則(それは人間の世界を支配している物理法則とはまったく異なっている)などを意識することはほとんどない。 意識すること自体できないのだ。


人間は自分で思っているよりはるかに偏った見方しかしていない。 ここに人間の持つ認識能力の1つ目の大きな限界が存在している。 同様の限界はすべての生物が持っている。 たとえば人間にとっては視覚は非常に重要だが、多くの生物にとってはにおい(化学物質)や音のほうがはるかに重要だ。 そして彼らの感覚では彼ら自身が世界の覇者だ。 彼らにとっては人間など思考のすみにも入ってこない。

ある日人間が一斉に消えてしまったところで、人間以外のほとんどの生物たちはなんら気にも留めないことだろう。 カメムシにとってはカメムシの世界がすべてであり、カタツムリにとってはカタツムリの世界がすべてなのだ。

ファーブルについての章が面白かった。 日本人の多くが多分抱いている好意的なファーブル像は日本人が勝手に想像の中で作り上げたものらしい。 実際のファーブルは「言う事を聞かない子どもにはキレまくり、脂ののった小鳥を撃って食べるのが何よりの楽しみで、持論は絶対に譲らず、そのために多くの敵を作り、64歳で23歳の女性と再婚してさらに子をもうけ、貧困をものともせず今の日本人男性は足元にも及ばぬ好き勝手し放題の人生を送った」そうだ。

日本人は漠然とファーブルが自然豊かな場所に暮らしていたと思っているかもしれないが、彼が住んでいたのは、人間が営々と搾取し続けたあげくの、荒れ果て干からびた、カスのような土地だった。


そんな土地を目の当たりにしながら、あれほど攻撃的であったファーブルでさえ、自然保護についてはひと言も口にしてはいない。 ファーブルの時代の人間たちは、はるかな祖先の時代からそうした貧相な風景の中で暮らし続けてきた。 自然とはあくまで耕し、搾取するためのものであって、ファーブルにとって唯一重要なことは、その貧しい生態系の中にも研究に値する昆虫がいくらでもいたということだけだった。

環境悪化が叫ばれる今日の日本だが、その生物相はフランスなどに比べたら驚くほど豊かだ。 それなのに日本人はファーブルにならって足元にいる目立たないが興味深い生態系を持つ昆虫に目を向けることなどはせず、相変わらずオオムラサキギフチョウやホタルやトンボやクワガタなどの定番派手虫の観賞ばかりに血道をあげている。 ファーブルを神のように崇めている人々がこのようなことをするのを、彼自身はとても理解できないに違いない。