「遺体−震災、津波の果てに」石井 光太著 その1


遺体―震災、津波の果てに
石井 光太
新潮社
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(「ブック・アサヒ・コム」の書籍紹介より抜粋)
著者は、大手メディアが真正面から採り上げることのなかった「遺体」と「遺体を取り巻く人々」に焦点を当てた。誰が遺体を発見し、誰が遺体を毛布で包み、誰が遺体を安置所に運んだか。誰が遺体を検案し、誰が遺族に対応し、誰が埋葬の手配をしたか。誰が祭壇を作り、誰が火葬場に搬送し、誰が読経したのか。市の半分が津波の被害を免れて行政機能が無事だったために、市民が自らの手で友人や知人を弔うことになった岩手県釜石市の遺体安置所を舞台に、そこで働いた人々の視点を通して震災後約3週間の日々を再現したのである。


 安置所となったのは、5年前に廃校になった旧・釜石第二中学校(旧二中)。葬儀社で働いた経験がある民生委員の千葉淳が、混乱を極める安置所の調整役をかって出た。これまで何千という遺体を見送った経験のある自分ならできることがあるかもしれない。地元に恩返しできるのは今しかない。そんな思いから市長に直談判したのだった。
 次々と運ばれてくる遺体を前に狼狽(ろうばい)を隠せない市の職員たちを励まし、遺体の扱い方や遺族との接し方を教える。遺体を確認しに来た遺族には、「亡くなった方はご家族に迎えに来てもらえてとても喜んでいると思います」と声をかけ、遺(のこ)された人々が少しでも前に進めるようそっと支えた。


 ベテランの医師や歯科医師でも、これほどの検死や歯形確認を行うのは初めてである。遺族のむせび泣く声を背中に感じながら、「仕事に集中しろ」と自分に言い聞かせ、黙々と作業を進める。それでも苦しそうに顔を歪(ゆが)めた遺体の中に、友人や自分の患者を見つけたときはさすがに体が凍り付き、彼らの無念を思って感情があふれ出しそうになった。

遺体安置所となった旧二中で冷たくなった家族を見つけてしまった遺族に、市の職員はどう対応していいかわからなかった。 それはそうだろう。 そんな仕事をすることになるなんて誰が想像しただろう。 「自分が助けていたら」と、泣いて自分を責める人にかける言葉なんてあるのか。 そもそも言葉をかけていいのか。 どうすることがベストなのか、何もすべきではないのか、全く見当がつかない時に、葬儀社で働いた経験のある千葉さんがボランティアを買って出てくれた。 どれほど心強かったことか。


遺体を確認したからといって、家に連れて帰ることはできない。 帰りたくても家を失った人も多かった。 電気が止まって火葬もできない。 遺体は体育館に置き去りにしていかないといけない。 遺体が傷まないように暖房も入らず、歯がカチカチ鳴るほど寒い所へ置いていくのだ。 中にはどうしても連れて帰る、と遺体のそばから離れない人もいた。 普通なら逃げたくなるような状況へ自ら飛び込み、千葉さんは遺族に声をかけ続け、励まし続けた。 


「亡くなった方はご家族に迎えに来てもらえてとても喜んでいると思います。 急にお顔がやさしくなったような気がします。これからは毎日会いに来てあげてください。 きっと故人の顔はもっと和らいできますから。」と優しく声をかけ、自分を繰り返し責めてしまう遺族の気持ちが楽になるような言葉をかけ続けた。

市の職員たちはそうした千葉の行動を目にして、見よう見真似で自分でも家族にはなしかけるようになった。 千葉も彼らに遺族の心理状態や励まし方について積極的に助言をした。 あの母親は毎日死んだ子に会いに来ているから交替でなぐさめよう、とか、あの遺体は夫婦だから一緒に並べよう、と。 職員たちにも自覚が芽生え、ときには自分たちの意思で集まってどうするかと相談するようになっていった。

ある時千葉がふと気がつくと、体育館の正面に祭壇が設けられていた。 学習机が並べられ、その上に金魚蜂に土を入れた香炉の代用品が置いてあった。 職員達がアイデアを出し合ってつくったのだろう。


真心の、手作りの祭壇を見た遺族の方達はどれほど有難かったことだろう。 どんな豪華な、立派な祭壇より、温かく、美しかったに違いないと思う。


千葉さんは遺族だけではなく、遺体にも声をかけ続けた。 遺体の名前を覚え、生きている人と同じように接した。 子供の遺体には「実君、昨晩はずっとここにいて寒かっただろ。ごめんな。 今日こそ、お父さんやお母さんが探しにやってきてくれるといいな。 そしたら、実君はどんなお話をするつもりだ? 今から考えておきなよ。」 隣にいる妊婦さんの遺体には、「幸子ママは、大槌町に住んでいたんだね。 一晩、寒い所でよく頑張ってくれたね。 ママのお陰で、お腹の赤ちゃんは寒くなかったんじゃないかな。 この子はとっても感謝しているはずだよ。 天国へ逝ったら、今度こそ無事に赤ちゃんを産んであげるんだよ。 暖かい所でのびのびと育ててあげなよ。そしていつか僕がそっちにいったときに大きくなった赤ちゃんを見せておくれ」と。


千葉さんはただ葬儀社で働いた経験があるからという理由でこれほど心のこもった語りかけが出来たわけではなかった。バブルが崩壊し少子高齢化が進んだ港町で取り扱う事が多くなったのは、誰にも看取られず一人で死んでいく老人たちだった。 遺族に連絡がついても、都会に働きに出ていてすぐ駆けつけることができない。 やむを得ず、千葉さんが腐乱した遺体から蛆を一匹ずつピンセットで取り除いた後に棺に納め、遺族が来るまでの間は葬儀社のホールに何日も安置するしかなかった。 

千葉はこうした遺体を見るたびに胸を痛めた。 八十年、九十年、必死になって子供や町のために働いてきてどうしてこんな最期を遂げなければならないのか。 千葉は蛆に食い荒らされた老人をせめて人間らしく扱いたいと思い、遺族がくるまで代わりに自分が遺体に言葉をかけることにした。 手があく度に、町の状況やその日の出来事を語って聞かせる。そうしていると穴だらけの変色した遺体が生前のように喜んだり、悲しんだりするように見えたのだ。


優しい人なんだと思う。 優しくて何かせずにはおれない人なのだ。 そういう優しい人がこの本にはたくさん登場する。 そして多くの優しい人が人を助けようとして、守ろうとして、自分の命を落とすのが津波なのか。 悲しい場面も多いが、人の優しさや強さに胸を打たれる場面も多い本。 脚色や演出を排除しようとする筆者の気持ちが感じられてかえって心に響く。